コトタマ
「勾玉(マガタマ)」2021/10
人は足を使って意志の赴くままに行動します。魚や鳥、野獣たちは尾を本能的に働かせて自由に動き、頭の丸いお玉じゃくしや人間の精子にも、尾があってそれを振って動き回ります。
墓場を彷徨する霊魂も、長い尾を引かないと絵になりません。尾の無い霊魂は一点に静止した光の塊にすぎません。遠い祖先は目に見えぬ魂を具象的には球体と考えていました。従ってタマというコトバはそのまま、球、玉、珠に当てていました。
球(タマ=魂)は尾のような存在がないと、指向性をもって自由に移動できません。例えば独楽はフル回転しているときは、一点に静止したまま動きません。それは烈しく運動(回転)はしていても、行動という変化に移れないのです。
日本語のマガルには漢字の「曲る」が当てられます。直線に対する曲線です。イザナギ(凪)は水平の直線であり静でもあります。それに対してイザナミ(波)は、曲線の不断の連続で動の世界です。(註―凪や波は現象界の風景で、神名としてのイザナギは天地を結ぶ縦の直線)
釣針は直線のままでは絶対に魚はかかりません。当然のことながら、針先を曲げて鉤型にします。それは人と人が交り絡み合うためにも必要な、目に見えぬマガの力です。
回転運動のまま静止した球(魂)に尾をつけて具象化したのが勾玉です。アマテラスの首飾りにあるように勾玉はクニを形成する重要な要素として神宝に象徴化され現代にも継承されています。勾玉の二つの組合せを巴(トモエ)といいます。動詞的には互いに伴う融合一体化の形です。
尾を引いて絡み合った勾玉が運動を起せば、それはやがて渦になります。巴は巨大なウズ・エネルギーの前提となる、自然の姿の象徴化でもあります。
互いに小指を曲げて約束を誓う指切り、五本の指を曲げて握り合い、好意を示す西洋流の握手の習慣など、日本語のマガの心象は人類の共通のようです。



